AIの発展はすさまじく、ひと昔前には到底考えられなかった仕事を簡単にこなせるようになりつつあります。 近い将来AIの能力は、人間を多くの面で上回ってくるだろう、というのは想像に難しくありません(というか既に多くの場面でそうですね)。 そうなったときに人間はAIに対してどう戦うことができるか、どんな面で優れることができるでしょうか。 今日はこの問いについて詳しく考えたことをメモします。つまり究極のAI vs 人間です。
AIが人間に敵わない一面として、「人間の出力したものからしか学べない」ということがよく言われます。 例えば伝統的にAIが学習するソースであるWikipediaやtwitterやYouTube、これらはすべて人間が生み出したものです。 AIが書いた(低品質な)文章をソースにしてAIを学習させることで、AIの性能が下がるという指摘もあります。 しかし、この点についてはAIも人間もおおむねフェアなのではないかというのが私の考えです。なぜかというと人間も人間の出力したものから学んでいるためです。 人間は、成長過程で見聞きしたものをもとに成長します。この見聞きしたもの、というのは人間の出力したものと、付け加えるとしたら自然として存在するものです。 究極のAIは、おそらく今のように成型された文章に加えて、生の人間とのやり取りや、自然に存在するものから学び取ることができるでしょう。 この点は最終的には人間の優位にはならないように思います。
学習するソースで差がつかないとしたら、何が差になるか。先に私の結論を言ってしまうと私はハードウェアこそが差になると考えています。 人間はAIと違って「肉体」を持っていて、それゆえの利害があります。叩けば痛いし食べればおいしいと感じます。こうした人間の機能を持たないことがAIの知能にどういった影響があるかは後で説明するとして、こうした機能が人間独自のものだということについて説明をします。 例えばAIに対して、人間のように、例えば痛みという機能をつければ良いのではないか、と考えてみます。しかしこれはそうでもないことが理解されます。 なぜなら一つ目に、人間はそうした機能を同時に非常にたくさん、相互に関連させながら働かせていて、それを模擬するのは難しいでしょう。 二つ目に、痛みなら分かりやすいですがが、例えば人を愛する機能となると、とたんに実装できなくなるでしょう。 三つ目に、痛みというシンプルそうな機能ですら、たとえば体を掻けば普通は弱い痛みと感じるが、同じ場所でも痒みを感じている時に掻くと気持ちよく感じるというように実際は複雑に動作しているためです。 こうしたことは全て長い年月で進化してできた遺伝子の作り出すこの人間だから起きていることです。言い換えればこうした機能セットを実現しようと思えば、「人間」を一から作り出さないといけないことになります。
では、次にそうした身体性のなさが、人工知能にどういう制約をもたらしているのかを考えます。 まず身体があるからこその表現ができる、というのは一見ありそうにみえます。 しかし音(声)、光(映像)は既にAIは人間が生成するのに似たような形で出力できているし、人間らしい動きをするロボットも(こちらはまだまだ人間に及ばないが)徐々に実現に近づいてきています。つまり人間のOutputだけを模擬しようと思ったら人間の肉体を持たずとも比較的実現しやすいということです。 人間にしかできないのは、むしろその出力の裏にストーリーを持つことだと思います。すなわち悲しい曲を書くAIは実現できても、悲しい気持ちになったから悲しい曲を書くAIを作ろうと思ったら、先に書いたような理由で実現するために人間そのものを作り出さないといけないことになります。 どちらの曲もできたもののクオリティだけとってみれば、最終的に同じところまで至ることは今のAIの発展のスピードを見れば想像にたやすいでしょう(これが、本当にそうなのかはのちに議論します)。
出力の裏にストーリーを持てないというのはどういうことか、言い換えれば、人間がそれがAIが作ったものだとわかった瞬間に、その裏にストーリーがないことがバレてがっかりしてしまうことだと思います。 より一般的に言うと、人間のAIに対する特別さは、身体があるからこそ人間から同じ生き物だと感じてもらえること、であると言えるのではないでしょうか。 もちろんこれは人間側の認知の問題で、まあ言ってしまえば気の持ちようだとも思ってしまいます。 しかしながら、実際にはこの課題は結構根が深いと思います。「AIには責任は取らせられない」、「最終的な意思決定は人間がしないといけない」というのが、この身体性の欠如によるものだと思うと、相当解決が難しいことがわかります。 つまり、AIは責任を取らされても人間のように辛くはないので責任は取らせられないということです。人間のように辛くなれるのは人間のみということになります。
AI学習禁止、というムーブメントも、一部これと根っこが一緒なのではないかと思います。 例えば超覚えの速いハイパー人類が誰かの子供として仮に突如生まれてきたとしてします。そうした子供が各地で生まれた際に、それに対して人間学習禁止と言えるでしょうか?もしかすると従来型の人間は反発して人間学習禁止と言い出すかもしれませんが、今のような一方的なムーブメントにはならないと思います。それはなぜかというと人間には人権があると人間は知っているためです。人間の権利を抑制してはいけないのは、人間は生きているし権利が制約されたら辛いからです。現状AIが肉体を持たない単なるツールだから、AI学習禁止という主張が成り立つのです。
ここまで理屈をこねてきたのをまとめると、人間の優位さは、人間から人間であると理解してもらえることに存在するということになりました。一方、人間の出力したOutputはAIはそのうち真似できてしまうと先ほどは言いました。 本当にそうか改めて例を挙げて考えてみます。(先に結論を言うと、そうでもない、という話をこれからします。)
例として、自分は音楽をやっていまして、そのOutputつまり演奏は、何によって決まるかと考えます。 まず曲に対する理解や、これまで音楽を通して身につけた感覚、どういう演奏をしたいかという意思があると言えます。 さらに当然感情やテンションによっても変わるし、身体の調子によっても変わります。 直前に何を聴いたかによっても、直前に何を弾いたかによっても変わってくるでしょう。 こうした自分由来のファクター以外で言えば、楽器の種類、鍵盤の重さ、音色、気温、もしかすると湿度、明るさ、などによっても変わるでしょう。 このように人間の出力はありとあらゆる変数によって変わってくることが理解できます。 これほどありとあらゆる入力のチャンネルやその解像度(つまりセンサーの部分)、その入力と入力の履歴がどう出力に影響するかという関数(つまり知能の部分)には、結局のところ人間の体が必要になります。これを真似しようと思ったらそっくりそのまま人間をつくりだす必要があることです。 AIに(既におよそ実現されているように)そっくりそのまま人間の真似ができているかのように思える絵や音楽、声といった出力そのものも、実は人間がやらないと出ない細かな違いがあることになります。名作詞家の書く詞は、やはりその人の肉体で過ごした人生と体験がなければ書けない、という簡単な結論までかなり遠回りしました。 言い換えればAIはある作詞家風に書くこともできれば、存在しないとある作詞家風に書くこともできるようにもなるだろうが、「自分風」に書くことはできないとも言えます。結局人間の出力からしか学べないので、頭打ちになるというスタート地点に帰ってきました。人間の身体を持って、人間のスピードで学ばないと、真に人間と同じ出力はできないということになります。
一方、その経験に裏打ちされた出力が、AIの出力より、人間にとって価値があるかという点はけっこう難しいことかもしれません。 AIが例えば人間のようなある種の経験を計算機の上で模擬できるようになって、人間とは違う方法で、それらしい経験に基づいた歌詞を出力できる時が来たとします。まずひとつ前の話から、それは人間が経験に基づいて生み出した歌詞と完全に一致することはできないでしょう。(もちろん無限に出力すればシェイクスピアだって書けますが、高い確率を持って出力する内容がという意味で)。 しかし、このAIの出力を受け取った人間にとって、AIの出力と人間の出力、どちらがより心を打たれるか、よりよい歌詞であるのかは、これまでの話からは明確になったとはいえないでしょう。仮に今のレベルのAIを想定してもビッグデータで平均的に学習した結果が、人間の出力より好ましいことはいくらでもあるだろうし。
また、少し話が変わって、こういった人間にしか出せない機微というのは、別の面としてブレであるとも言えると思います。 AIは温度というパラメータを持っていて、それにより出力をブレさせることができるのですが、それは例えば寒いから手が動きづらかった、緊張していたからミスったというリアルなブレではありません。人間のリアルなブレにはこれまでの話と同じように、人間の肉体が必要です。もちろんそのブレが好ましいかは別の話です。
全ての話をまとめると、結局のところ結論としてはシンプルです。計算機上で実現されるAIを限界まで突き詰めた時に、人間とAIとの間には、肉体、その肉体を形作る長い進化の歴史が実現した遺伝子、の差があります。これは一つに人間から人間と思ってもらえない点として差になり、もう一つにそもそもの出力が人間とは突き詰めても異なる点にあると考えました。そしてこの出力の差異は一方にブレでもあるし、もう一方もしかしたら人間から見た価値の高さでもありうる(あってほしいと私は願いますが、定かではないでしょう)。
ここからは余談ですが、先のAI学習禁止の例は、AIが人間のように肉体のような機能や感情のような機能を持った時に、AI学習禁止が意味をなすのかという問いににもなっています。AIがパーソナリティを持った人間らしき存在になったときに、そのAIが日々目にし耳にする情報から学び取るのを禁止するのは意味をなすでしょうか。
また別の余談として、今回は人間がどういう点においてAIに勝てるかを議論しましたが、AIがどういう点において人間に勝るかについては触れませんでした。これについては無数に例が挙げられると思いますが、肉体を持たないという点についていえば、これはむしろAIの利点になると思います。いくら稼働しても疲れないし、痛みも感じないし、怒ることもないということです。
最後に私のAIに対する感じ方についてすこし書きます。私はAIの進展のようなテクノロジーの進歩によって、触れる世界がよりわくわくするものに変わることを期待しています。社会や政治や世界の将来について、暗いニュースにあふれて、正当な感受性を持っていれば、鬱屈とした気持ちにならざるを得ない現代において、こうしたテクノロジーの進歩は人類のステージを高める鍵になってくれる、いやくれなきゃ困る、と私は感じてしまいます。